イーサン・チェン君(仮名)と知り合ったのは2016年だったかと思う。
時々、本や冊子のテキストとともにデザインやレイアウトも一括で受注することがある。そのさいに知人の紹介でグラフィックデザイナーのイーサン君を紹介された。「日本じゃなくて香港か」と思ったが、どこに住んでいようとインターネットがあれば問題ない。これはコロナ禍であらためて証明された。
イーサン君は本当に高い実力を有するプロフェッショナルである。おまけにとても親切で丁寧でやり取りしやすい。なもので、今までに何度かお仕事をお願いしている。
2020年に彼の地で中国政府による国家安全維持法が施行された。ちょっと心配になってメールをしてみたところ、概ね生活に変わりはないとの返事がきた。
「ただね、ここに来ることはおすすめできないな。もう前とは違う」という。
いつかリアルで会えたらと思っていたのにね。悲しい気持ちになった。
今年もあるプロジェクトでお仕事をお願いした。イーサン君へは米ドルでお支払いするので、ウクライナ情勢が原因で加速する円安により経費が少しずつ増えていく。香港ドルでも日本円でもなく、米ドルである。国境を超える支払いの場合は、基軸通貨とも最強通貨とも言われている米ドルを希望する外国人は多い。でもまったく構わない。イーサン君は、こちらが為替差損を被ることもやぶさかではないプロフェッショナルなスキルを持っているからである。
「日本に行くよ。ビザが下りた」
と、メールにあった。イーサン君は最近世界で注目されている、外国人の起業活動を促進するためのビザを取得したという。創業人材をめぐる国際競争の激化を反映する種類のビザであると言えよう。細かな事情は訊ねていないが、イーサン君がそのビザを取得した理由は香港の現状と無関係ではあるまい。
イーサン君は国境を超えるスキルと才覚を持つから移住がしやすいかもしれない。しかし、そうとは言えない人はウクライナのように明確な有事にならない限り、ビザを得てより身の安全を確保しやすい国へ移住(避難)することはそれほど簡単ではないだろう。
知人の動きで感じざるを得ない。世界は少しずつ変化している。それも今のところは残念ながら良くないほうに。
ファシズムは少しずつ少しずつ、多くの人が気づかないうちに生活に入り込み、それが常態化すると好むと好まざるとに関わらず受け入れてしまうようになる。80年前も「世界大戦にはならないよ」と多くの人は思っていたのではないだろうか。
もし最悪の状況になった場合、いつも物事を明確に決められないこの日本という国は、どのようなシナリオで有事に本格的に巻き込まれていくのだろうか。
ともあれ、イーサン君には日本の桜を見てほしいと思う。もう北海道くらいしか残っていないかもしれないけれど。