ライター、ワインエキスパート【冨永真奈美】

WINE & FOOD

浅草橋でギリシャの家庭料理、アシルティコ、マスカット・オブ・アレクサンドリア、ヴィディアーノ

ギリシャワイン

ちょっと長いけれど、優れた食とワインの体験を、高校生からはたちにかけての映画や読書の思い出と共に残しておきたい。

ギリシャ料理に興味が湧いたのは高校生の頃だ。記憶が正しければ、ロバート・ラドラムのスパイ小説でニューヨーク市警のおじさんが「おふくろのムサカが無性に食べてえ」と煙草をくゆらすというくだりがあった。「ムサカってなんだろ。あたしもムサカが食べてえ」と想像したものだ。『恋のためらい/フランキーとジョニー』(アル・パチーノとミシェル・ファイファー共演)を見て、舞台となるギリシャダイナー「アポロカフェ」を見ようと、(実際には無かったが)マンハッタンの23rd/9thへ行ったこともある。

しかしだ。ギリシャについて執筆したこともあるのに、ギリシャワインのコピーを訳したこともあるのに、ギリシャ料理をきちんと食べたことが無かった。なぜか。それはたぶん、納得のいく初めてのギリシャ料理の体験ができそうなお店を知るまで、どこも試さないでいようと無意識のうちに決めていたからだと思う。その禁を解除するきっかけとなったのが、浅草橋にあるギリシャの家庭料理とワインのお店「フィリ」である。オーナーは松下邦子さんだ。

「フィリ」は私が思い描くギリシャのイメージそのものだ。涼やかな白と青を基調とした外観や店内は体感温度を5度は下げてくれる。口笛が聞こえてくるようなフォントで書かれたメニューを眺め、4種類の前菜やメインからなるプレフィックスのコース(ワインなどドリンク2杯付き)を注文した。スパナコピタ、フェタサガナキ、ムサカ、カラマリ・プシト……ギリシャの代表的な家庭料理満載のコースである。ああ、初めて、ムサカをきちんと食べるのだ!

蒸し暑さには酸味のきいたフレッシュなワイン-アシルティコ-が一番である。クレタ島からやってきたアシルティコ100パーセントのAlargoは、口に含んでものの30秒くらいで驚くほどの変化を遂げた。桃やネクタリンからレモンやオレンジなどの柑橘系へ変わり、ヴェルメンティーノを思わせる心地よいしょっぱさへと辿り着く。サントリーニ島の土着品種というのも頷ける。スパナコピタのサクサク感、フェタサガナキのクリーミーなしょっぱさと添えられた甘いはちみつにとても合う!すごい!

中盤でインターミッション的に(今でも映画館で行われているのか?)ロゼワインをお願いする。マスカット・オブ・アレクサンドリアでつくられた、ロードンというオーガニックワインのバラとフローラルな香りは、未だ見ぬリムノス島の花園を想像させる。そういえば少し前から店内にギリシャ音楽が流れている。『恋のためらい/フランキーとジョニー』でパーティの最中に賑やかなギリシャ音楽の演奏が始まると、アル・パチーノ扮するジョニーが「踊ろう!」とミシェル・ファイファー扮するフランキーを誘い、くどきの仕上げにかかろうとする。すげなく断られるが大事なのはその後。路上で見つめ合う二人のそばで花の配達トラックのバックドアが勢いよく開くと、そこにちょうどこのロゼワインのような鮮やかな花が咲き乱れていた。あのシーンが頭に浮かぶような香りと味わいのロゼワインだった。

さて、期待の一品であるギリシャ家庭料理の定番、ムサカが運ばれてきた。ギリシャ国旗が立てられたこのムサカは、ニューヨーク市警のおじさんの「おふくろのムサカ」と似ているのだろうか。おそらく「同じものはねえよ。けどそれもなかなかのもんだぜ」とニヒルに言うのだろう。こってりしたベシャメル、ジューシーなナスとミート、コクのあるミートソースからなるムサカは、高校生の頃に頭に刻み込まれたあのムサカへの期待に応えてあまりある逸品だった。

ムサカのおともはアスプロス・ラゴスという名の白ワインだ。クレタ島の土着品種ヴィディアーノでつくられている。黄金色のワインから花と柑橘類の豊かな香りがする。ハチミツ、梨、アプリコット、そしてバターとカラメルの風味までまろやかに口に広がる。コクのあるムサカにぴったりだ。もちろん、噛めば噛むほど味わい深い、ファバ豆のディップを添えたカラマリ・プシト(イカのグリル)にもよく合う!

最後に。いつも思うのだが、何らかの情景が浮かび上がってきたり、過去の記憶や体験がよみがえってきたりするような料理やワインは、それがつくり手の意図するものではない場合もあるとしても、とてもユニークで卓越した料理やワインなのだろうと思う。出会いに感謝である

*2020年8月に公開したエッセイです。

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